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chloe's diary

日々雑感。小説、映画などに触れているときは、例外なくネタをばらしておりますので、ご注意ください。

バートルビー翻訳読み比べ

2007年10月01日 | 小説
 インターネットというのはすごいもので(正しくは、すごいのはインターネットではなく、柴田元幸氏ですが)、ハーマン・メルヴィルの『バートルビー』の柴田元幸氏による新訳『書写人バートルビー』のpdfファイルを見つけてしまいました。
 さっそく、昨日までの「読書メモ」をつけるときに参照した『代書人バートルビー バベルの図書館9』(国書刊行会/一九八八年十一月刊/酒本雅之・訳)と柴田訳『書写人バートルビー』を読み比べてみました。なお、この読み比べは、両者の優劣をあげつらうものではなく、二種類の訳文とさらに原文を併せ読むことで、『バートルビー』の面白さをもっと深く味わおうという試みです、念のため。
『書写人バートルビー』は放送大学(http://www.campus.u-air.ac.jp/)内の工藤庸子氏の個人サイトにアップされたもの(http://www.campus.u-air.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/eBook/bartleby_h.pdf)です。
 原文はBartleby.com (http://www.bartleby.com/129/index.html)から入手しました。

 まず、タイトルですが、

Bartleby, the Scrivener: A Story of Wall-street
【酒本訳】代書人バートルビー ―― 壁の街[ウォール・ストリート]の物語
【柴田訳】書写人バートルビー ―― ウォール街の物語

 というわけで、サブタイトルは最初からあったものと判明。

Bartleby was one of those beings of whom nothing is ascertainable, except from the original sources, and in his case those are very small.
【酒本訳P.17】バートルビーのような人種のことを知るには、本人に聞いてみるしか手はないが、それが彼の場合には、ほとんど頼みにならないのだ。
【柴田訳】バートルビーは、元々の源まで溯らぬことには何ひとつ確かめようのない人物だったのであり、彼の場合その源はおそろしく貧しかったのである。

 酒本訳が one of those beings を“のような人種”と訳出している点を別にすれば、柴田訳のほうが原文に忠実ですね。私にとって〈問題〉なのは、from the original sources を“本人に聞いてみる”と訳すか“元々の源まで溯”ると訳すか。私は、本人に聞いてみることのできない死者を引き合いにして何かを言うことが「わたし」(柴田訳では「私」)の「語り方」の重大な特徴だと感じており、「語り」のこの段階では読者に明かされてはいませんが、語っている時点ではバートルビーが死者であることと関連づけてこの文を読みたいので、やや酒本訳に傾きます。ですが、“元々の源まで溯”る、という表現には、小説の最後に付け加えられる噂話についてあれこれと考え始めさせる喚起力が感じられ、こちらも捨てがたい気がします。

I do not speak it in vanity, but simply record the fact, that I was not unemployed in my profession by the late John Jacob Astor;
【酒本訳P.19】いばりたくて言うのではなく、ただ事実として申し上げておくが、わたしだとていまは亡きジョン・ジェイコブ・アスターに仕事を頼まれなかったわけではないのだ。
【柴田訳】これは自慢したくて言っているのではない。あくまで私が、故ジョン・ジェイコブ・アスターに仕事を依頼されていたという事実を記しておくためにすぎない。
a name which, I admit, I love to repeat, for it hath a rounded and orbicular sound to it, and rings like unto bullion.
【酒本訳P.19】むろんこの名前のほうも、なんど繰り返して唱えてみても実にいい。まろやかで円満なひびきを持ち、金塊みたいに朗々としている。
【柴田訳】むろん私としても、その名をくり返し口にするのが悦びであることを認めるにやぶさかではない。丸みを帯びた、球状の音をその名は有し、あたかも金塊のような響きを備えている。
I will freely add, that I was not insensible to the late John Jacob Astor’s good opinion.
【酒本訳P.19】ざっくばらんに付け加えておくが、いまは亡きジョン・ジェイコブ・アスターの好意ある意見が、胸にぐっとこなかったと言えばうそになる。
【柴田訳】さらに、進んで認めておくが、故ジョン・ジェイコブ・アスターに悪く思われてはいないことも私は十分認識していた。

 中段の文の酒本訳“むろんこの名前のほうも”と始めるのは、原文の語順を尊重したものと思われますが、ここは柴田訳“むろん私としても”のほうが文脈にしっくり馴染んで読みやすいですね。さて、私が柴田訳を読んでいて動揺したのは、その前後の文です。なぜかと言いますと、私が「わたし」の「語り方」のもう一つの特徴だと考えた二重否定がなくなっていたからです(じつを言えば、私が原文も入手してこんな付け合せのようなことを始めたのは、インターネットでたまたま見つけた柴田訳を読んでいて、この部分にぶつかったからです)。原文はご覧のとおりで、文法的には二重否定と言わないのかも知れませんが、not *un*employed、not *in*sensible は意味としては二重否定なのでちょっと安心しました。
 また、細かいことですが、この少し前に出てくる柴田訳の“私的な熱狂”は「詩的な熱狂」の変換ミスだと思います(原文は poetic enthusiasm)。

Still further to a satisfactory arrangement, I procured a high green folding screen, which might entirely isolate Bartleby from my sight, though not remove him from my voice. And thus, in a manner, privacy and society were conjoined.
【酒本訳P.32】そのうえ、念には念を入れて、わたしは背の高い緑色の屏風まで調達した。これでバートルビーを、声の届かぬところまで遠ざけずとも、視界から完全に消してしまえる。こうして何とか、一人でいながら相手もいるという形になった。
【柴田訳】さらに便を高めようと、私は緑色の折り畳み式つい立てを用意し、バートルビーの姿はこっちから見えなくする一方、こっちの声は依然彼に届くようにした。このようにして、プライバシーと仕事上のつながりとを両立させたのである。

 直前にバートルビーの窓からの景色が壁に遮られているという記述があり、酒本訳の“そのうえ、念には念を入れて”に私は「わたし」のバートルビーを視覚的密室に閉じ込める意図を読み取ったのですが、私の誤解でした。原文および柴田訳には誤解の余地はありません。バートルビーが視覚的密室に置かれたという結果に変わりはないのですが。

I would prefer not to.
【酒本訳P.34】せずにすめばありがたいのですが
【柴田訳】そうしない方が好ましいのですが

『バートルビー』を翻訳される方は、みんなこの台詞をどう訳すかに知恵を絞るのでしょうね。私は個人的には、“好ましい”はちょっと主体的な感じが出すぎるように感じるので、“ありがたい”派です。ちなみに、『バートルビー 偶然性について』では、「しないほうがいいのですが」と訳されているそうです。

and Bartleby remained standing at his window in one of his profoundest dead-wall reveries. Will it be credited? Ought I to acknowledge it?
【酒本訳P.77】そしてバートルビーは窓際に立ちつくし、またもや例のごとく、盲壁相手の幻想の深みにはまりこんだままだった。信じてやれるか。認めるべきか。
【柴田訳】そしてバートルビーは、相変わらず窓際に立ち、いつにも増して深遠なる壁相手の夢想にふけっていた。あれを認めてよいものか? 是認すべきなのか?

 これは大した問題ではありませんが、酒本訳で最初に読んだとき、“信じてやれるか”にどうしても違和感を覚えたので...。原文と柴田訳を見て納得すると同時に、“信じてやれるか”もずいぶん考えた上での選択だった気がしてきました。

a vagrant, is he? What! he a vagrant, a wanderer, who refuses to budge? It is because he will not be a vagrant, then, that you seek to count him as a vagrant. That is too absurd. No visible means of support: there I have him. Wrong again: for indubitably he does support himself, and that is the only unanswerable proof that any man can show of his possessing the means so to do.
【酒本訳P.81-82】宿なしだろ、あいつは。おい、ちょっと待った。てんから動こうとしないあいつが、宿なしかい、浮浪者かい。それなら、おまえがあいつを宿なしだと思いたがるのは、あいつが宿なしになりたがらないからというわけだ。ばかばかしくて話にならん。自活手段が見当たらない、そうだ、これでいこう。いや、それもちがうな。だってあいつはたしかに自活してるぜ。誰にしろ自活手段があるってことをきっぱり証明してみせるには、自活していることが何よりの証拠だ。
【柴田訳】浮浪罪ではどうだ? 何だって! ぴくりとも動かぬ人間が浮浪者、漂泊者か? つまりあなたは、彼が浮浪しようとせぬがゆえに浮浪者とみなそうと言うのか。それはあまりに馬鹿げている。では、生計手段が見当たらぬこと、これならいいだろう。いや、それも違う――彼は明らかに自活しえているのであり、それこそ生計の手段を有することを証す唯一完璧な証拠なのだから。

「わたし」がバートルビーを追い出すことをあきらめて事務所のほうを移すことを決意する直前のいささか転倒した自問自答です。浮浪者についての前半は柴田訳が、自活についての後半は酒本訳が解りやすいように思います。

“Good-bye, Bartleby; I am going--good-bye, and God some way bless you; and take that,” slipping something in his hand. But it dropped upon the floor, and then,--strange to say--I tore myself from him whom I had so longed to be rid of.
【酒本訳P.83】「さようなら、バートルビー、これでお別れだ、さようなら。君のご多幸を祈るよ。それからこれを受け取ってくれ」そしてあるものを彼の手にそっと渡した。ところがそのものは床の上に落ち、それからわたしは、言うも奇妙なことながら、あれほどお払い箱にしたがっていた彼から、やっとの思いで離れたのだ。
【柴田訳】「さようなら、バートルビー。私はもう行くよ。さようなら、どうにかして君の神の御加護がありますように。そしてこれを受け取ってくれ」そう言ってなにがしかの金をその手に握らせた。だが金は床に落ち、それから、奇妙にも、あんなに追い出したいと望んでいた相手から、私は断腸の思いで離れていった。

 原文で something と書かれ、it で受けられたもの、酒本訳で“あるもの”と訳されたものに私は引っかかりました。柴田訳で“なにがしかの金”としてあるのを見て、やはりこれが素直な解釈かな、と思う反面、他のところを読むかぎり「わたし」はお金に関しては曖昧な表現をしない人のようですし、依然としてもっと違う意味が込められている気もします。

But I am not particular.
【酒本訳P.88】でもわがままは言いません
【柴田訳】特に好みはありません

 最後の説得で「わたし」を激怒させ、遁走に導くバートルビーの言葉。どちらの訳もうまいと思いますが、遠慮深い言い回しでありながら、自分が個別の、特定の、特別な何かではなく、全的な存在であるという含みを感じさせる原文のすごさには及びません。I would prefer not to. と並ぶ、この小説のキーワードだと思います。

“Bartleby, this is Mr. Cutlets; you will find him very useful to you.”
【酒本訳P.88】「バートルビー、こちらはカツレツさんだ。きっとおおいに君の役に立ってくれるよ」
【柴田訳】「バートルビー、この人は味方だよ。大いに役に立ってくれるはずだ」

 柴田訳でなぜ Mr. Cutlets が訳出されていないのか不思議です。私にとってはこの「喰いもの屋」(柴田訳では「弁当屋」)の名前はけっこう重要なのですが。
 おしまいに、小説の最後の部分を引いておきます。

pardon for those who died despairing; hope for those who died unhoping; good tidings for those who died stifled by unrelieved calamities. On errands of life, these letters speed to death.
Ah Bartleby! Ah humanity!
【酒本訳P.100】絶望のうちに死んだ人々宛ての許しの手紙、希望を失って死んだ人々宛ての希望の手紙、息つく暇もない災禍に悶死した人々宛ての吉報のときもある。いのちを与える用向きのはずが、これらの手紙は死の淵へ急いで行く。
 ああ、バートルビーよ。ああ、人間とは。
【柴田訳】絶望して死んでいった者たちに赦しを。希望なく死んだ者たちに希望を。ひとときの安らぎもない不幸によって息の根を止められた者たちに良き報せを。人生の使いを携えて、これらの手紙は死へと急ぐ。
 ああ、バートルビー! ああ、人間!


4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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カツレツ氏 (とみすけ)
2009-03-29 18:17:08
通りすがりのものです。

>柴田訳でなぜ Mr. Cutlets が訳出されていないのか不思議です。

岩波文庫版では,「初稿ではカツレツ氏という名前が出ていたが,改稿され固有名詞が無くなった」ということが書いてあったように思います。なので柴田訳はそちらに沿ったということでしょうか。

でしゃばってすみません。
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ご教示、ありがとうございます (chloe)
2009-03-29 23:41:46
とみすけ様

 ご親切に教えていただき、ありがとうございます。“でしゃば”るどころか、ご覧のとおりほとんどコメントをいただくこともないブログですので、感激しております。

 じつはその後、ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』(月曜社/二〇〇五年七月刊)を読んだところ、訳者の高桑和巳氏が、

P.163
 ハーマン・メルヴィル(一八一九‐一八九一年)の短篇小説「バートルビー」は、一八五三年に「筆生バートルビー」という題で、「ウォール街物語」という副題をともなって『パトナムズ・マンスリー・マガジン』に匿名で発表され、その三年後、短篇集『ピアザ物語』に、副題を省き、題も「バートルビー」と単純化されたほか、本文にも若干の修正が加えられたうえで収録された。

 と書いておられ、同書に収録された『ピアザ物語』版を底本とする高桑訳「バートルビー」にも「カツレツ氏」の名前(およびその妻)は出てこないので、柴田訳も『ピアザ物語』版に基づき、酒本訳は『パトナムズ・マンスリー・マガジン』版に拠るということだろうと考えておりました。もっとも、それならなぜ、柴田訳にも副題が付いているのだろうか、という新たな疑問も生じてしまったのですが(笑)。
 まあ、些末な疑問はさておき、普通に考えると、『ピアザ物語』版のほうを著者による決定稿と見なして尊重しそうなものですが、「バベルの図書館」は敢えて初出の雑誌版を採ったわけで、この選択はボルヘスの意向によるものだろうか、もしそうならボルヘスはなぜ初出のほうを選んだのだろうか、などといろいろと想像してしまいます。
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助かりました! (Unknown)
2010-01-25 11:25:48
アメリカで随筆の授業をとっているものです。難しくて…日本語訳を探してました。偶然こちらに辿り着きましが…が日本語訳でも色々な解釈があって難しいんですね。。
授業で読まなくてはいけなかったので本当に本当に助かりましたーーー!!
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Break-up (Bigue)
2021-02-24 17:09:20

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